[特集]
No.30  円空(木っ端仏の聖)との旅
[写真]
「金山町の円空像にあう」より:聖観音像

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日本の宗教、芸能や芸術の創造は、旅と不可分の関係をもつことが多い。芭蕉の俳諧は、旅を住みかとして深まっていったし、遊行上人と言われた一遍は、日本中を旅して念仏札を配った。
日本各地に円空仏と言われるおびただしい数の自在な木彫りの像を残した円空も、旅を通じて同時代の仏師たちの作風とはまったく違った自己流の制作と人々との交わりのスタイルをつくりだしていった人だ。円空は、自分について多くを話さなかった人のようで、その生涯は謎の部分が多いが、多彩な彫像たちにが語ることに耳を傾ければ、おのずから円空の旅がどのようなものだったのか、明らかになってくると思われる。
幸い、インターネット上でも、かなりの数の円空仏に会うことができるようになっている。これを糸口にしながら、今回の特集では、円空とともに旅し、円空の旅はどのようなものだったのか、旅を通じて円空の創作の世界がどのように広がり、深まっていったのかを考えてみたい。

▼バラエティに富んだ円空仏

[写真]円空仏といっても、どんな仏像かはっきりしないという人も多いかもしれないので、まず、インターネット上にある写真で特徴を探ってみることからはじめよう。
円空は、江戸時代の初期1632年に美濃の国に生まれた人なので、岐阜県には、多数の円空仏がある。岐阜県の市町村の中でインターネットを通じての発信にとくに熱心なのは金山町で、「金山町の円空仏に会う」というサイトでは町内にある円空仏の40体のうち29体の写真を掲載している。円空が彫った彫像は大きさも彫り方もきわめて多彩だが、ひとつの町にある円空仏の大多数を載せてくれると、そのバラエティの豊かさの一端が伝わってくる。
たとえば、月光菩薩 日光菩薩は、身体は荒削りだが、円空仏に特徴的な穏やかな微笑を浮かべている。聖観音像では、顔の表情はシンプルな彫り方になっている。
また、円空の彫像は「円空仏」という言い方で一括されることが多いが、仏像ばかりを彫った訳ではなく、神像や人物像など幅広い像をつくっている。宇賀神像稲荷大明神像恵比寿像などは、ダイナミックに彫られ、顔の表情も力強さや荒々しさが目立つ。稲荷大明神像の狐のように簡潔の彫りで野性的な力を捉えるのも、円空の得意技のひとつだ。また、阿弥陀如来像のような小さな座像もある。

いずれにせよ、同時代の仏師たちというと、金銅や乾漆の手のこんだ仏像をつくっていた訳で、一木の仏像となると平安まで遡らないとあまりないだろう。古代の一木の仏像にしても、円空のように、荒削りな彫り方はされていない。円空のこういう自在な木彫は、一体どういう経緯で生まれえたのだろうか。

▼蝦夷地(北海道)の円空

円空はその生涯の多くの時間を旅とその途上での仏像の制作に費やした人のようだが、なかでも、30代半ばの蝦夷地(北海道)への困難な旅は、円空のその後の生き方をきめる原体験のような意味をもったのではないだろうか。
「桧山地方を中心とする円空仏」の中の「北海道の円空仏分布・解説」は、北海道に残る円空仏のうち31体について、所在地を地図上に描き込み、それぞれの円空仏の写真を載せ、伝承などを簡潔にまとめてくれている。また、円空より120年ほど後に蝦夷地を旅した菅江真澄は、その途上で多くの円空仏と出会い、「えみしのさへき」「えぞのてぶり」(東洋文庫「菅江真澄遊覧記・2」に収録)という旅行記にかなり詳しく記録している。この2つを重ねあわせると、蝦夷地での円空の活動がどんなものだったか、また人々にそれがどう受け容れられたかが、だんだん明かになる。

円空が蝦夷地でめざした主な場所は、有珠善光寺と太田権現という道南の霊場だったようだ。太田権現は、道南の渡島半島の西側で奥尻島の対岸あたりにあり、高くそびえたつ岩にかけてある鉄の鎖をたぐって登らなければならないというとんでもない所にある洞窟だ。この窟に円空の彫った仏像があると菅江真澄が記しているが、これはその後なくなってしまったらしい。
有珠善光寺は、半島の東側で洞爺湖の近くにある。「北海道の円空仏分布・解説」の「2.伊達市有珠町 善光寺」に書かれているように、菅江真澄が有珠善光寺より少し手前の虻田礼文華の海岸のケボロヰの洞窟で見たと記している円空仏のうち一体が現在、善光寺に移されている。この背面には、「----江州伊吹山平等岩僧内---------圓空花押」と刻まれていて、これによって円空は北海道にわたる前に伊吹山で修業したことがわかるといわれている。伊吹山は円空が育った美濃を見おろす1,377mの秀峰で、古くから山岳信仰で知られる。58歳になってから円空は再び伊吹山の太平寺を訪れ、手近な桜の木で十一面観音像を彫っている。こうしたことから、円空が若い頃から山岳修業者だったことが確認できる。

円空は有珠善光寺と太田権現といった霊場をめざす旅の途中でも多数の仏像を彫り、菅江真澄もそれをいくつか記録しているが、そのほとんどが洞窟の中にまつられたものである。「爾志郡熊石町字根崎 根崎神社」によると、円空は熊石町黒岩の海岸に面した洞窟に起居し、仏像を刻み、村人達が家に逗留するように勧めても洞窟から離れなかったという話が伝えられている。円空が苦行者のような旅をした様子がわかる。

▼北海道の円空仏のその後

「北海道の円空仏分布・解説」をみると、こうした旅の途中で、円空が北海道に残した仏像が、その後どのように人々と苦楽をともにしてきたかを知ることができる。神社の御神体として人々の目にふれることなく信仰されてきたもの(熊石町・北山神社)、ニシンが不漁の時に豊漁祈願のために海に投げ込まれ、再び海岸に漂着したもの(江差町 柏森神社)、病気が流行すると背中を削って煎じ薬にされているもの(砂原町 内浦神社)などさまざまな経緯が語りつがれている。
また、「釧路市米町 厳島神社」にも、円空の観音像があり、背面には「くすり乃たけごんげん」と刻まれている。「釧路昔ばなし」によると、これは菅江真澄がケボロヰの洞窟で見た5体の仏像のうちの1体で、その後「くすり乃たけごんげん」という銘を見て、霊山をめざしながら達しえなかった円空の意をくんで松田伝十郎が釧路に移したのだという。釧路では、アイヌの人たちが「アカンカムイ」として拝んでいたという。
蝦夷地(北海道)の先住民はいうまでもなくアイヌの人たちだが、円空がわたった江戸の初期には、松前藩によるアイヌに対する支配が浸透しつつあった。しかし、円空はアイヌの人たちの居住域をも旅しているので、菅江真澄と同様、アイヌの世話になることも多かった筈だ。そして、円空が彫った像がアイヌのカムイ(神)として拝まれるようになるということもあったようだ。

▼岐阜羽島、美並村の円空仏に会う

円空は30歳代半ばに、蝦夷地でのハードな作仏(さぶつ)の旅を敢行した。その後、50歳代には何度か日光にでかけて仏像を彫っているが、それ以外は、主に中部地方で活動したようだ。そのため、円熟期の円空仏は、中部地方にたくさん残されている。そこで、私たちも、円空仏に会いに、岐阜県の岐阜羽島、美並村、丹生川村を巡る旅に出かけた。
岐阜羽島は、円空の誕生の地といわれている所のひとつで、「円空物語」にも出てくるように、十一面観音像、不動明王像など10数体の円空仏がある。その近くの長間薬師寺には、薬師三尊像や護法神像などがある。三尊像は菩薩の穏やかな表情が丁寧に彫られてたものである。護法神像は菩薩像などにつきそう護衛役のような役割をもち、円空はあちこちで護法神像を彫っているが、この長間薬師寺の護法神がもっとも力強いようだ。
美並村は美濃太田から長良川線というバスのような電車に乗って1時間ほど長良川沿いに遡った山林に囲まれた村で、美並村を円空の誕生の地とする説もある。円空がここで生まれたのかどうか別にして、円空の活動拠点のひとつであったことは間違いなく、美並村には115体という多数の円空仏が残されていて、円空ふるさと館に展示されている。
この展示の中には、現在、発見されている中ではもっとも初期の作品とされる数体の神像が含まれている。円空美並村生誕説は、木地師の家系の生まれだとする(美並村)。美並村で生まれたかどうかは別として、初期の神像が美並村で彫られているという事実は、円空の木彫りの技術は、美並村の木地師から学んだものである可能性が強いことを示している。というのは、木地師は伝統的に仏像は彫らず山の神などの神像を彫ることが多く、また美並村には木地師の伝統があるからだ(木地師という言葉については大分県歴史辞典に解説がある)。
美並村の展示を見ると、円空は、初期に神像を彫った後、北海道に渡る前から仏像を彫るようになったらしいことがわかる。北海道で円空が彫った仏像は、同じタイプのものが多く、仏像の表情は切実な想いがうちにこもったような感じで、後の円空仏のように、のびやかな表情ではない。北海道から戻り、40歳代に入るころから、円空の作風は多彩になり、彫り方も自在でのびのびとしたものになっていったことが、うかがわれる。

▼円空の自在な作風の開花

円空仏の特徴のひとつは、素材の木を無駄なく使い、短かい時間で彫りあげられる彫り方を工夫していることにある。素材の使い方では、木を縦に2つに割って、その断面がそのまま仏像の背面になっているものが多い。そしてこの背面に仏像名や梵字、年号などを墨で書いたり、刻んだりしてあるものも少なくない。初期のものから仏像の多くは、こうした形のものである。
しかし、木の割り方は2つとはかぎらず、洞戸村高賀神社の善女龍王、十一面観音、善財童子は木を縦に3分割したもので、3体を向かいあわせにすると合体して元の木材の形になるという。このように、円空は素材の木を生かして、彫像の形をきわめて巧みに引き出していく名人芸を身につけていったことがわかる。
「円空物語」でも、「円空上人の卓越した才能は、いかに素材の性質を生かすかというところに集約されています。----素材の持っている特徴を最大限に利用するため、最短距離で断ち割るように掘り進む。これが、樹木の精を呼び起こし、仏や神の姿に変え」ると書いている。

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円空がハードな旅と作仏の積み重ねを経て、40歳代で達した自在の境地をよく示すもののひとつは、名古屋市の荒子観音寺で彫った千面菩薩だ。千面菩薩とは、大きいものは45cm小さいものは3cm 弱の大小さまざまな菩薩を中心とする群像で、木を縦に割った木目を生かして大胆に彫ったものが多く、表情も簡略な彫り方だ。しかも、無数の像がひとつひとつそれぞれの特徴をもつように彫ってあるという。木がもつ特質をひきだして、無数の多彩な群像の小宇宙をつくりだしている。
この群像が納められていた木箱の蓋の裏には、「是也之クサレルウキキ(浮木)トリアケテ 子守ノ神ト我盤成奈里(われはなるなり)」という歌が書かれていた(三山進「円空巡礼」新潮社)。
産婆さんが赤ちゃんをとりあげるように、川を流れてきた木をとりあげて、この木から大小の菩薩の形を育てていく「子守ノ神」に円空がなるというのだろうか。また、この群像の中の木端仏たちが民家に譲られ、子どもたちと遊ぶ様子が思い浮かべられているようでもある。

▼円空が尊敬した行基の勧進

同時代の仏師たちとはまるで違った、こうした自在な彫像のスタイルに、円空はどうして至りえたのだろうか。この問題について考えるには、円空の活動を僧侶や職人のどういう系譜のうちに位置づけられるかを調べてみる必要がある。

円空についての本格的な研究のパイオニア的な存在である五来重さんは、円空は遊行の聖(ひじり)であったという。聖とは、仏教教団のピラミッドの上の部分にいる学問僧たちを底辺から支える「働き蜂」のような役割を果たした人たちで、僧侶としての公式の資格をもたない、半僧半俗の性格をもった。学問僧たちの多くは寺院にとじこもって仏典を研究するのに明け暮れていたのに対して、仏典の細かい解釈などには通じていない聖たちは山岳で修業して験を身につけ、各地を遊行して迷える霊を鎮める儀礼を行って病気や災厄に苦しむ人たち心を慰めたりした。
つまり、エリートの学問僧たちの多くは、中国からもたらされた仏典の解釈の専門家だったのに対して、聖たちは、庶民の中で草の根的な活動をする遊行僧で、そのため仏教以前のプリミティブな宗教と混交する土着性をもっていた。
たとえば、高僧となった空海の場合も、唐に渡る前にあわただしく得度をしたようで、それまでは僧侶としての公的な資格をもたない私度僧(しどそう)だった。そして、私度僧の時代に山岳修業を行い、土着的な要素の強い宗教的な体験をしていて、これが、唐から戻ってからの独創的な思索の展開の土台となっているようだ。(室戸岬で修業し「三教指帰(さんごうしき)」を書いた頃の空海は私度僧だった。)

また、五来さんによると、聖たちの活動で社会的にもっとも重要なのは、勧進聖としての活動だという。この勧進という方式で、さまざまな事業を行った初期の人としてよく知られているのは、行基(668〜749年)である。行基は橋をつくったり、池を掘ったりする社会的事業を行うのに、聖たちを組織し、こうした事業に協力し参加することが滅罪になると人々に説いて、資金や労力の提供を促した。(高山義浩さんは「行基に見るNGOの原風景」で、こうした行基の勧進は、日本におけるNGOやボランタリズムの原点だと書いている。)
国や寺院の財政的基盤が弱体化した平安末期になると、朝廷から見るといかがわしい聖の集団に依存しなければ寺院を再建できなくなり、平重衡に焼き討ちされた東大寺は、重源(ちょうげん) を勧進職に任じて勧進の方式で再興を果たした。勧進職というのは、仏像をつくったり、寺を再建したり、橋をつくったりする事業のいわばプロデューサーとしての役割である。このプロデューサーの下で多数の勧進聖たちが、人々に事業への協力を呼びかけるキャンペインを行う訳だ。

円空の旅と仏像づくりは、こうした行基の勧進の事業に啓発された面があるようだ。
それは荒子観音寺の「淨海雑記」(1844年)という文書には「行基上人ノ人トナリヲ慕ヒ、十二万体の仏躯ヲ彫刻之大願ヲ発シ」という円空についての記述があることや、円空が修業した伊吹山も行基と縁が深い山であることからも推測できる。
しかし、江戸時代には、中世には活発だった漂泊の民の活動が封じ込められるよ うになり、幕府や藩は遊行僧や勧進聖の活動をきびしく取り締まるようになったため、かつてのような多数の聖を組織した勧進は困難になっていた。(「修験道と山岳信仰」には、江戸時代に入って修験者の定住政策がとられたと書かれている。)

▼ミニマムな形の勧進/単身の遊行と作仏

こうした流れの下で、円空が行基に倣って社会的、仏教的な作善(さぜん)を行なおうとしても、勧進聖の組織的な活動をすることはできず、新たな形をつくり出さなければならなかった。そのため、円空は、単身で行うミニマムな形の勧進のスタイルを見いだしたと考えてみることができるだろう。つまり、造仏のために勧進を行う時、聖はキャンペイン係で、実際に仏像をつくるのは仏師などの職人たちだった。しかし、円空の場合には、聖でありながら、自ら仏像を彫る技能を身につけ、単身で遊行しながら貧しい人びとに慈悲の手をさしのべる菩薩の像を彫る事業を行った。こうした事業を行いながら、どうやって生活の糧を得ることができたのかという点でも、古来からの勧進と較べてみるのがいいだろう。
というのは、多数の人たちを動員して造寺、造仏などを成し遂げる古来からの勧進の事業は、社会的、仏教的な作善であると同時に、そうした事業を通じて、聖たちが生活の糧を得る仕組みでもあるという両側面をもっていたからだ。つまり、重源のような勧進職は、造寺、造仏などの勧進の権利を寺院から与えられ、勧進聖たちを組織してキャンペインを行い、事業が終わって余剰ができると、これは勧進職や配下の聖たちの生活の糧となった(五来重「増補=高野聖」角川選書)。
勧進聖たちは、造寺、造仏などの勧進に協力して資金や労力を提供することが、滅罪になると説いた訳だが、他方で、単身で各地を遊行し、洞窟やお堂にこもって仏像を彫る円空に食べ物をもっていく村人も、それによって作善に加わることができると感じただろう。

村人たちにとって、どこからともなくやってきた円空は素性の知れない薄汚い聖に見えたに違いない。しかし、洞窟やお堂にこもって日夜、仏像を彫り続けている様子を見るうちに、ただの乞食坊主ではなく、高い志をもつ人かも知れないと村人の誰かが思い、食べ物を届けに行く。そうすると、円空はお礼に小さな木端仏を渡し、「粗末な像に見えるかも知れないが、心をこめて彫った観音様だから、大事にまつってください」と頼む。やがて、洞窟やお堂に菩薩像や観音像をおさめて円空は去っていく。
あちこちに残された円空仏やそれらにまつわる伝えから、そんな様子を想像することができる。
このつつましいミニマムな形の勧進は、貧しい生活の中で苦悩する人たちに、慈悲の手をさしのべる菩薩の精神を具現化するには、とてもふさわしい形だったと言える。

単身で行うミニマムの勧進の形態をとるために、円空の作仏は、制作時間の面でも、資材の面でも、使う道具の面でも、できる限り簡略化した方法を選ばざるをえなかった。そして、円空のすごさは、こうした制約の下でかえって、古代の木彫りに学びながら未曾有の生き生きとしたスタイルの彫像をつくり出したことにある。手近な材を使って短時間に心をこめて像を彫る工夫をするうちに、樹木の材質感を生かす独自の彫り方を体得することになったのだ。
また、円空がこもって像を彫った洞窟などは、荒々しい自然の気が充ちている所であり、そうした場所でさまざまな自然の気配を感じ、音を聞きながら彫像したことも、樹木のうちに宿る性質をひきだすような彫り方を身につけるのに役だったと考えられる。
たとえば「木にだにも 御形(みかた)を移す ありがたや 法(のり)の御音(みおと)は 谷のひびきか」といった円空の歌にも、谷に響きわたる鉈や鑿の音に仏性を感じ、心に浮かぶ菩薩の姿を一心に木に移していく様子が描かれているようだ。

▼古代飛騨の豪族、両面宿儺

[写真] 奥飛騨は、晩年の円空が好んで足を運んだ所のようだが、なかでも円空との関わりが深かった上宝村を訪れた、田村紀男さんが「ほほえみの仏たち----」という報告を書いている。
上宝村に入るには、かつては細い山道を長い時間、歩かなければならなかったが、円空はこうした厳しい自然にさらされた美しい山村とそこに生きる人々をことさら愛したようだ。
上宝村には、どこのお堂にも、円空が彫った不動明王などがあり、どこの民家にも円空の1寸8分(5.5cm)の観音像が伝わっている。こういう村は、上宝村だけだという。
上宝村のなかでも辺鄙な金木戸という集落は、平家の落人が開いたといわれ、山腹の狭い平地に数戸の民家と観音堂が押し合うようにへばりついている。このお堂で円空は十一面観音などの傑作を彫ったが、現在はこの集落は過疎のために消滅してしまっている。

今回の私たちの旅では、上宝村までは行くことができなかったが、円空が上宝村など奥飛騨に出かける時の拠点となったと思われる千光寺(丹生川村)(歴史伝承の旅2/円空と千光寺)に詣でて、円空仏寺宝館を見せていただいた。
円空が樹に梯子を掛けて顔を彫り込んでいる様子を描いた「近世畸人伝」の絵がよく引用されているが、寺宝館に出かけて、あの絵は千光寺での出来事であることがわかった。円空は境内の立ったままの枯木を彫って、一対の仁王像を彫ったのだ。現在はそれが寺宝館の中に納められている。
また、千光寺の両面宿儺(りょうめんすくな)像は、円空が精魂を傾けて彫った傑作のひとつだ。両面宿儺は飛騨の豪族で、「日本書記」には、人民を苦しめたため武振熊(たけふるくま)を遣わして殺したと書いてあるが、飛騨では敬慕されてきたと言う(「両面宿儺伝説をめぐる奇想」)。
「日本書記」の記述では、顔が前後両面にあるとされているが、円空の像では、同一面のふたつの顔にレイアウトが変更されていて、中心には穏やかなしかし力強い顔があり、右に小さい憤怒の表情の顔が彫られている。円空は、飛騨の人々に敬愛された山民の首領として、両面宿儺の姿を彫ろうとしたことは確かなようだ。こうした両面宿儺像に力を入れたところからも、円空の人となりの一端をうかがうことができる。

[参考文献]
菅江真澄著/内田武志他編訳「菅江真澄遊覧記・2」東洋文庫
五来重著「増補=高野聖」角川選書


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